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とっぴんぱらりの風太郎
「なんやのん、この人」
正体不明のひさご様に戸惑いながらも
無事、最終地点の方広寺に到着した風太郎
「さぁ~て、このあと、どこに行きまひょか」
ひさご様のリクエストにより「蹴鞠」をすることになりました
どうも祇園社(八坂神社)の松林に蹴鞠コートがあるらしい
竹の坊と梅の坊の2つの坊舎がありまして・・・
竹の坊は蹴鞠、楊弓、囲碁なんかができるいわゆるレクリエーションセンター
梅の坊は蹴鞠もできるんですが
綺麗な女人もいてお酒を飲んであれこれ遊ぶこともできるという類のサロン
ひさご様一行はヘルシーな竹の坊で蹴鞠を楽しむことになりました
洛中洛外図の中に、この竹の坊と梅の坊を見つけたときは
思わず小躍りしてしましたね(右隻向かって右から4枚目)
竹の坊はまさに蹴鞠コートという感じで、なんとフェンスがあるんです
もちろん竹矢来なんですけど・・・
この蹴鞠コートで
「アリ」「ヤ」「オウ」と掛声をかけながら
数を競う数鞠に挑戦します
ひさご様は、見た目、デブでどんくさそうなんですけど
上手なんですよ、しかも動きも軽快・・・
結局、618回まで蹴り続けました
誰かが落としたわけではなく鞠がほつれてしまい萎んでしまったのでやむなく終了
下鴨神社の新春蹴鞠初めの動画を見ると
いかに618回がスゴイかよくわかります
この蹴鞠でひさご様との距離がぐっと縮まります
これがなかったら、あのエンディングはなかったと思う
この後、境内で残菊率いる月次組に襲われ
風太郎たちのボディガードとしての腕が試されるわけですね
ひさご様は南門に待たせてあった駕籠に乗って洛中へ
祇園社の近くには清水寺も描かれています(右隻右から2~3枚目)
産寧坂にある瓢六は、清水名物音羽延命水を売るお店
音羽の滝も描かれています
・・・・・・・・・・続く
風太郎的京都歩き
ひさご様の京都見物~祇園会
ひさご様の京都見物~方広寺大仏殿
ひさご様の京都見物~祇園社で蹴鞠
風太郎と黒弓の御土居堀ウォーキング
光悦をたずねよ
とっぴんぱらりの風太郎
風太郎が伊賀を出て京都へやってきたときには
すでに秀吉さまはこの世にはいらっしゃいませんでした
方広寺大仏殿は、まさに再建の真っただ中
再建?そうなんですよ、これ、第2次大仏殿なんです
第1次大仏殿は、秀吉さんの手によって1595年に完成しました
平家の南都焼き討ちで焼失した東大寺大仏殿は
1190年に重源上人によって再建されましたが
1567年に三好・松永の戦いで再び焼失
このあと、140年ほど放置されていましたので
この時点では方広寺大仏殿は国内最大の建築物であり大仏さんでした
天下統一の夢をこの大仏さんに託していた秀吉さん
京都で大仏殿をなんとか復興させたいということで
どうも方広寺大仏殿は大仏様を取り入れて造られたようです
重源上人が再建した東大寺大仏殿と同じです
しかし、重源上人の死後、東大寺大仏殿を再建したチームは解散してしまい
大仏様という建築様式は廃れていきました
大仏様で建てられた浄土寺やら
東大寺大仏殿は焼失しましたが南大門は残っていたので
それを参考にしたのかどうかはよくわかりませんが
なんとか大仏様を取り入れながら完成にこぎつけたようです
ただ、時間がなかったので大仏さんは銅造ではなく木造漆箔・・・
案の定、翌年の慶長伏見地震で大仏さんは倒壊します
このとき、秀吉さんは倒壊した大仏さんに文句を言ったとか・・・
「おみゃあさま大仏なんだで、自分の身は自分で守らないかんがや」
秀吉さんは1598年に亡くなりますが
大仏再建は続きます、もちろん銅造で・・・
しかし、1602年、大仏さん鋳造の最中に出火し
大仏さんのみならず大仏殿まで焼失してしまいます
もうやめようよ、どうせ後から家康さんにいちゃもんつけられるんだから・・・
しかし、その家康さんは豊臣家の財力をそぐために
この大仏殿の再建を息子の秀頼さんに強く勧めます
で、始まったのが第2次大仏殿の再建です
第2次も大仏様を取り入れた建築でした
無事、1612年に大仏殿は完成(洛中洛外図の右隻向かって右から2枚目)
そして1614年に例の梵鐘も完成し
あとは大仏供養を残すのみというときに
鐘銘の「国家安康」「君臣豊楽」で家康さんが激怒し、大仏供養は延期となり
その後、大坂冬の陣、そして夏の陣で豊臣家滅亡・・・
ひさご様の方広寺大仏殿見物はあの「国家安康」の鐘ができる前です
見物の後、「国家安康」の鐘に取り替えられました
さて、豊臣家滅亡後、方広寺大仏殿はどうなったのか・・・
方広寺大仏殿の隣に建つ豊国社は廃祀となります(右隻向かって右から1枚目)が
大仏殿は残るんですよ
やはりあの梵鐘は証拠として残しておかなくていけませんから・・・家康さん的には
しかし、1662年の地震で大仏さんは倒壊
その倒壊した大仏さんはなんと寛永通宝の原料となります
1667年、大仏さんは木造で再建されますが
1798年、落雷により大仏さんも大仏殿も焼失します
とことん呪われていますね
ただ、方広寺はこの世から消えてしまいましたが
方広寺大仏殿の大仏様は残っていきます
第2次大仏殿の再建とほぼ同時期に
秀頼は家康に東寺金堂の再建も押しつけられます
この東寺金堂は、方広寺大仏殿を参考にして大仏様を取り入れています(1603年)
そして東大寺大仏殿・・・
すべてはここから始まった大仏様ですが
1709年、東大寺大仏殿も方広寺大仏殿を参考にして再建されました
方広寺大仏殿の遺伝子はなんとか生き残りましたよ、秀吉さん
・・・・・・・・・・続く
風太郎的京都歩き
ひさご様の京都見物~祇園会
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風太郎と黒弓の御土居堀ウォーキング
光悦をたずねよ
とっぴんぱらりの風太郎
ネタばれしないようにあらすじには触れません
あくまでも町歩き・・・
風太郎はかつての忍び仲間に頼まれて
ひさご様の京都見物のボディガードを務めることになりました
折しも京の町は祇園会(祇園まつり)で大にぎわい
ここで洛中洛外図の出番です
洛中洛外図は何種類かありますが
「とっぴんぱらりの風太郎」は舟木本です、たぶん・・・
12月1日で東京国立博物館の展示は終わってしまいましたが
ウェブで見ることができます
六曲一双屏風で
ウェブの画像一覧の向かって左側が左隻、向かって右側が右隻です
左隻の左端に二条城を、右隻の右端に方広寺大仏殿を配しており
徳川VS豊臣という政治的意図が色濃く表現されています
この洛中洛外図が描かれたのは豊臣家が滅亡してからですが
描かれている景観は
風太郎たちがひさご様の京都見物のお供をしたあたりのものと思われます
予備知識なしに見ると「あぁ、細かい絵」で終わってしまう洛中洛外図ですが
いつ、何のために描かれたのかがわかると見方も変わります
さらにルーペで細かく観察するとこの絵の面白さ倍増~♪
万城目さんもたぶんこの洛中洛外図にかなりインスパイアされたのでは?
ひさご様のお宿は御幸町通三条通
寺町通の1本西側なので祇園まつりを眺めるにはナイススポットだったはず
左隻の向かって右から3枚目の上部に祇園会の御輿が見えます
その御輿を取り囲むように扇を振りながら踊るお囃子の人たち・・・
ハンパない熱気だわ、これ
右から2枚目には母衣(ほろ)武者行列や傘鉾も見えます
その行列を見物する人たちが「いいぞぉ」「よぉ」とか掛声をかけていて
ものすごい臨場感です
本当に細かく描きこんであります、素晴らしい~♪
宿を出たひさご様ご一行は五条大橋を渡って方広寺大仏殿に向かいます
五条大橋は秀吉さんが大仏造営のために架けた橋(右隻向かって右から2枚~3枚)
橋の上では酔っ払った男女が浮かれ踊っています
もうすぐ徳川と豊臣の戦が始まる
踊り狂っていないとやってられない・・・っていう感じでしょうか
・・・・・・・・・・続く
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ひさご様の京都見物~祇園会
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光悦をたずねよ
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