[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
時間軸が微妙に狂ってきたので
京都御苑のイチョウの絨毯を歩きながら明治の新島八重さんモードにリセットしました
今出川御門を出ると
目の前には赤レンガの同志社大学の校舎が並んでいました
大河ドラマ「八重の桜」でお馴染みの校舎です
襄さんが亡くなってから建てられた校舎の方が多いですが
おふたりの強い信念が宿る学び舎
見学の方々も少なからずいらっしゃいました
こちらは新島遺品庫です
どんなものが収められているんだろうと調べてみましたら・・・
自らの手を強打したあの自責の杖も収められています
約6000点の品々を収蔵
設計はヴォーリズ氏
新島襄さん没後50年を記念して造られました。1942年(昭和17年)
その遺品庫の奥に建っているのが啓明館です。1920年(大正9年)
現在は研究棟になっていますが
昔は図書館として利用されていました
設計はヴォーリズ氏
さらに北、相国寺の総門の手前に建つのがアーモスト館。1932年(昭和7年)
コロニアルな雰囲気がアーリーアメリカンって感じです
新島襄さんの母校、アーモスト大学との友好関係から建てられた学生寮だそうです
設計はヴォーリズ氏
初代の図書館です。啓明館は二代目
設計はD.C.グリーン氏
重厚なんですが威圧感がない・・・
雨が降っていたんですが、傘もささずに思わず見入ってしまいました
八重の桜の年表を見ると
明治20年に、姪っ子のみねが亡くなっています
しかし、この有終館、昭和3年に火事で焼けてしまいます
そこで立ちあがったのが、最近、私が気になっているあの建築家です
焼け残った軀体を修理保存設計したのは武田五一氏でした
尖塔部分を45度の角度をつけたことでとても印象的なフォルムになっています
設計は、ドイツ人のR.ゼール氏
新島襄さんの死を悼み卒業生たちがこの神学館の建設を計画し募金を始めますが
なかなか集まらず、半ばあきらめていたところ
アメリカのクラーク夫妻の寄付により着工にこぎつけることができました
明治27年といえば日清戦争が勃発した年
先回の予告編を見たら
八重さんは従軍篤志看護婦として広島で負傷兵たちの看護をしていました
いよいよ最終回ですね
その名もハリス氏の寄付によって1890年(明治23年)に竣工
上棟式のわずか前に襄さんは亡くなられました
今年リニューアルされまして
常設展示や企画展
キャンパス出土考古学・古文書資料による
創立以前の京都の歴史を紹介する展示室などが設けられました
ということで中に入ると・・・
かつて天文台もあったらしく
これはその天文台に通じる階段です(現在、天文台はありません)
D.C.グリーン氏による設計で、1886年(明治19年)
日本に現存する最古の赤レンガ造りのプロテスタント教会だそうです
1884年(明治17年)にアメリカンボードの寄付により竣工しました
設計はD.C.グリーン氏
時計塔と鐘塔を兼ねた塔が印象的です
屋根は瓦葺なんですね
今出川キャンパスの中でも一番古い赤レンガ校舎です
竣工した1884年、資金集めのために襄さんは欧米を回っていました
命を削りながら大学設立のために奔走した
新島襄さんの魂が刻まれている赤レンガ校舎・・・
ドラマの新島夫妻の姿が重なって、胸が熱くなりました
雨が降り出してきたので全てまわることができず
かなり撮りこぼしもあります
お隣の同志社女子大も行きたかったのですがさすがにギブアップ
またの機会に回りたいです
・・・・・・・・・・続く
同志社の赤レンガ校舎に想う
相国寺から千家へ
同志社大学寒梅館でランチ
光悦をたずねよ
近代建築めぐり
岐阜・名和昆虫博物館
七条通をレトロ散歩
西本願寺を歩く
京都の近代建築は懐が深い(?)
同志社の赤レンガ校舎に想う
納屋橋の看板ビル
琵琶湖疏水
岡崎近代建築エリア
京都・豊臣ワールドの近代建築
室町通を北上し
丸太町を渡ったら、いきなり明治時代にタイムスリップしました
ここが京都の面白いところです
信長さんが足利義昭に建てた旧二条城の石碑が立っていたのは
平安女学院大学の片隅でした
1875年(明治8年)、大阪で開校した学校で、1895年(明治28年)に京都に移転
そのときに「平安女学院」と校名を変更したようです
その京都で初めての校舎が明治館でした
ただ、こちらの明治館は遠くからしか見ることができませんので
すいません、うまく撮影できませんでした
平安女学院大学明治館で検索すれば
素敵な赤レンガの校舎に出会えると思います
神戸異人館の旧ハッサム邸で有名な
アレクサンダー・N・ハンセル氏の設計によって建設された明治館
建築様式は当時英国で大流行していた「アン女王スタイル」だそうです
校舎だけ見ていると日本にいることを忘れてしまいそう
こちらは昭和館です。1929年(昭和4年)
その隣にあるゴシック様式の聖アグネス教会です。1898年(明治31年)
大丸百貨店店主の下村氏の邸宅として
昭和7年、ヴォーリズ氏の設計により建設されました
下立売通を西に行くと京都府庁が見えてきます
こちらは旧本館です
1904年(明治37年)に建てられたもので
昭和46年まで府庁の本館として使用されていました
バルコニーまでありますね
創建時の姿をとどめる現役の官公庁建物としては、日本最古のもの
一部公開されているので中を拝見させていただきました
階段を上がって2階へ
旧知事室です
暖炉の画像はピンぼけしてしまいましたが
大理石にタイルを組み合わせたものです
天井は格天井です
外観は洋館なんですけど、内部は和風テイストが所々に散りばめられています
こちらの部屋は正庁
旧本館のシンボル的な部屋だそうです
天井は、折上小組格天井です
先に二条城を見ているので折上格天井はおまかせください
二の丸御殿の大広間一の間は二重折上格天井でした
京都府庁は、松室重光氏の設計により宮大工が造ったものですから
古来より受け継がれてきた匠の技がいかんなく発揮されています
こちらはあのバルコニー
なんでも人類初の有人宇宙飛行士ガガーリンがこの府庁に立ち寄った際に
ここから府民のみなさんの歓迎に応えたそうです
中庭も公開されていました
1862年、会津藩主松平容保が京都守護職に就任
その京都守護職屋敷は府庁を含む広大なエリアに建っていました
それにちなんで容保桜が植えられています
大島桜と山桜を併せ持つ珍しい品種の桜だそうです
その中庭から出たら
ちょっと面白いものを見つけました
寸止め廊下
私、勝手に名付けさせていただきました
隣に第1号館がありまして
どうも旧本館と空中廊下でつなごうとしたようです
あと何cm?というところで寸止めです
たぶん、壁をぶちぬくなんて・・・と反対されたんではないでしょうか
よくぞここで留まってくれました
敷地内にある府警察本部は1929年(昭和4年)に建てられたもの
3階の窓だけはアーチになっているんですね
京都府庁から、さらに北上すると、ごっつい柱が見えました
西陣電話局(旧京都中央電話局西陣分局舎)です。1921年(大正10年)
ちょっと見にくいですが庇下の部分のレリーフは踊り子です、たぶん裸婦・・・
で、正面にも3体の裸婦が踊っています、ライオンもいますね
なんとも独創的な建築物です
29歳という若さで夭折した岩本禄氏の設計で
岩本氏の現存唯一の建築作品です
実はここに来るまでにもっとエグイ裸婦を見ているので
さほどこの西陣電話局の裸婦には驚きませんでした
秀吉さんの二条城である妙顕寺城の碑を見たあと
あたりをぶらぶら歩いていたら
突然、この裸婦が現れました
こちらは法律事務所です
この天秤は罪の重さを量る・・・っていうことでしょうか
結構、大きい裸婦だったのでびっくりしましたよ
もう1体は京都府庁の東北角の交差点に立つヴィーナス
見とれてしまって交差点内で事故なんてことにはならないんでしょうか
すぐ近くに警察本部があるので大丈夫なのかな?
ということで裸婦3連発でした
・・・・・・・・・・続く
京都の近代建築は懐が深い
同志社の赤レンガ校舎に想う
相国寺から千家へ
同志社大学寒梅館でランチ
光悦をたずねよ
近代建築めぐり
岐阜・名和昆虫博物館
七条通をレトロ散歩
西本願寺を歩く
京都の近代建築は懐が深い(?)
同志社の赤レンガ校舎に想う
納屋橋の看板ビル
琵琶湖疏水
岡崎近代建築エリア
京都・豊臣ワールドの近代建築
青春18きっぷで京都に行ってきました
二条駅で降りて
久しぶりに二条城へ
正確には元離宮二条城です
伏見城から移築したといわれている唐門
今年の8月に修復が終わったばかりなので
ぴかぴかです
二条城は天下人となった家康さんの京都の宿所として建てられたお城
伏見城を破却した後は、諸大名との謁見もここで行っていました
三代の家光さんがさらに増築し、本丸・二の丸・天守閣も完成
現在の規模となりました
しかしその後、落雷により天守が焼失してしまいます
さらに市中の大火で本丸も焼失し、二条城は衰退していきます
その衰退した二条城が再びお役目を果たすのは
1867年の大政奉還でした
狩野探幽の松の襖絵を配した大広間一の間には
15代将軍の慶喜さんと諸藩の重臣らの等身大の人形が置かれていまして
今、まさに大政奉還を発表している様子を見ることができます
明治元年、新政府が二条城を接収し、城内に太政管代を置きます
その後、京都府に移管され
二の丸御殿内に府庁が置かれたこともありましたが
府舎建設後は、宮内省の所管となり、二条離宮となります
1893年、御所の北にあった桂宮御殿を本丸に移築
1915年(大正4年)には大正天皇の即位の大典が行われます
1939年(昭和14年)、京都市に移管されてから
元離宮二条城として一般公開が始まりました
が、ここは便宜的に家康さんの二条城と呼ばせていただきます
家康さんの二条城を出て
さらなる二城城をめざします
向かいの京都国際ホテルの東側、 西福寺の入口に
こんな碑が立っています
豊臣秀吉妙顕寺城跡
このあたりは古城町という地名なんですが
ここに秀吉さんの二条城がありました
妙顕寺城跡に建設されたので妙顕寺城とも呼ばれています
聚楽第ができるまでは、政庁として使用されていました
さらに東へ
京都国際マンガミュージアムの入口脇に立つ碑
此附近 二条殿址
信長さんの二条城です
在京中の宿所として築いた城です、二条新御所と呼ばれています
本能寺の変で
嫡男の信忠はこの二条新御所に篭城し自害しました
この二条殿址の碑のそばに
此附近 徳川時代銀座遺址という碑もあったので
パシャパシャ撮影していましたら
修学旅行の兄ちゃんたちが近寄ってきました
マンガミュージアムに来たらしいのですが
あいにく今日は休館日、途方に暮れていたようです
しかし、地味な石碑を見て「チッ」と舌打ちした後
再び、地図を見ながら計画の立て直しを図っていました
お役に立てず申し訳ないっす
この碑は両替町通に立っていますが
信長さんの二条城は室町通に面して建てられていました
応仁の乱後、京都の町は
上京と下京のふたつのエリアにぱっかりと分かれて
しかも濠と土塁で囲まれたいわば環濠城塞都市のようになっていたようです
その上京と下京の集落の中間に
信長さんは二条新御所を建設
分かれたふたつの集落を統一しようとした矢先に
本能寺の変で落命
そこで秀吉さんがその後を受けて京都を大改造しました
現在の京都のベースを作ったのは秀吉さんなんですね
ということで
信長さんの二条新御所があった室町通を北上し丸太町通を渡ったところに
旧二条城跡の碑が立っています(撮り忘れました)
これは信長さんが足利義昭のために1569年に築城したもの
家康さんの二条城(元離宮二条城)の片隅に
旧二条城の石垣が置かれています
この室町通ですが
上京と下京にぱっかりと分かれていた時代
このふたつのエリアをつないでいた唯一の通りだったようです
だからこの通り沿いに建っていたんですね
さらに室町通を北上し
今出川通と交差する角にこんな碑が・・・
従是東北 足利将軍室町第址
室町第は、代々の足利将軍の邸宅です
室町幕府、室町時代の室町とは
この室町通のことだったんだな・・・と
今回、自分の足で歩いて納得しました
・・・・・・・・・・続く
二条城をめぐる
京都の近代建築は懐が深い(?)
同志社の赤レンガ校舎に想う
相国寺から千家へ
同志社大学寒梅館でランチ
光悦をたずねよ
01 | 2025/02 | 03 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | ||||||
2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 |
23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |