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「揚輝荘」北園を出て
マンション脇の細い通路を歩いていくと
例の松坂屋の商標が見えてきます
15代伊藤次郎左衛門祐民氏の父上、14代伊藤次郎左衛門祐昌氏が
明治に設立した名古屋最初の私立銀行「伊藤銀行」本店の玄関に
掲げられていたものだそうです
その後、名古屋銀行、愛知銀行と合併し、東海銀行を設立
そんな「揚輝荘」の南園を彩るのは
ハーフティンバー様式の迎賓館「聴松閣」です
江戸から明治にかけての商家の暖簾といえば
藍染に白抜き・・・がほとんどでした
そんな中で松坂屋の前身である「いとう呉服店」には
赤に白抜きという斬新なものもありました
「乙鳥(つばくろ)や赤い暖簾の松坂屋」
かの夏目漱石の一句です
江戸時代の松坂屋のコーポレートカラーである「赤」が
紅葉と相まって素敵なコントラストを醸し出しておりました
玄関前には祐民氏の干支である虎が睨みをきかせています
1階の食堂は、現在カフェになっています
さりげなく「いとう」の文字が・・・
2階に上がると
角にしつらえた丸窓下のソファでのんびり本など読みたい気分です
この中国風の意匠をこらした部屋は寝室だそうです
もちろん和室もあります
たぶん多国籍な雰囲気なんでしょう
「聴松閣」のぶっ飛ぶような感性は
階段を下りた地下にありました
祐民氏は昭和6年には支那使節団の団長として中国へ
そして昭和9年にはビルマやインドなど仏跡巡拝の旅に出ています
彼は四男坊だからでしょうか
型にはまらない自由な発想を持っていた方だったようです
玄関前の虎も中国でお買い上げされたものだそうですが
伊藤家にはきっと祐民氏のアンテナにひっかかったどえらいアジアの名品が
数多く伝わっていると思われます
聴松閣の地下は、インドでした
当時、揚輝荘にはインドはじめシャム、支那、朝鮮などなど
このヒンズーの女神の壁画はインドの留学生が描いたものだそうです
舞踏場を飾るインド風のレリーフ
ヒマラヤの雪嶺をイメージしたガラス彫刻
祐民氏の旅の思い出が随所に散りばめられています
この舞台の上では多国籍な音楽が
夜な夜な奏でられていたんでしょうか
この地下からさらに続く地下トンネルがありました
立ち入り禁止でこれ以上はわかりません
なんのための地下トンネル?
凝ったトンネルなので
いろいろな噂がありますが実のところよくわかりません
ただ戦時中は防空壕として使われていたと伝えられています
名古屋人のある年齢層の方々は
松坂屋を「まっつぁかや」と呼びます
「今日、まっつぁかやに行ってきたわ」
「これ、まっつぁかやのセーターだがね」
松坂屋はかつて名古屋人のステータスシンボルでした
30年ほど前、ちょうど百貨店業界が曲がり角に差し掛かった頃
お家騒動がありまして・・・
かつての輝きを失った感のある松坂屋
この揚輝荘もマンション開発の波に飲み込まれそうになっていましたが
地域の財産として残したいという住民たちによって
2006年、「NPO法人揚輝荘の会」が立ちあげられました
そして伊藤家が残存する建物と庭園を名古屋市に寄贈
2008年には聴松閣、揚輝荘座敷、伴華楼、三賞亭、白雲橋の5棟が
市の有形文化財に指定され
この建物の保存と活用が本格的にスタートしました
改装工事を終えた建物では様々なイベントが催されていて
再びコミュニティサロンとして輝き始めようとしています
こうして住民と伊藤家と名古屋市によって
祐民氏の理想や想い
そして伊藤家400年の歴史も後世に受け継がれることとなりました
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