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とっぴんぱらりの風太郎
風太郎が伊賀を出て京都へやってきたときには
すでに秀吉さまはこの世にはいらっしゃいませんでした
方広寺大仏殿は、まさに再建の真っただ中
再建?そうなんですよ、これ、第2次大仏殿なんです
第1次大仏殿は、秀吉さんの手によって1595年に完成しました
平家の南都焼き討ちで焼失した東大寺大仏殿は
1190年に重源上人によって再建されましたが
1567年に三好・松永の戦いで再び焼失
このあと、140年ほど放置されていましたので
この時点では方広寺大仏殿は国内最大の建築物であり大仏さんでした
天下統一の夢をこの大仏さんに託していた秀吉さん
京都で大仏殿をなんとか復興させたいということで
どうも方広寺大仏殿は大仏様を取り入れて造られたようです
重源上人が再建した東大寺大仏殿と同じです
しかし、重源上人の死後、東大寺大仏殿を再建したチームは解散してしまい
大仏様という建築様式は廃れていきました
大仏様で建てられた浄土寺やら
東大寺大仏殿は焼失しましたが南大門は残っていたので
それを参考にしたのかどうかはよくわかりませんが
なんとか大仏様を取り入れながら完成にこぎつけたようです
ただ、時間がなかったので大仏さんは銅造ではなく木造漆箔・・・
案の定、翌年の慶長伏見地震で大仏さんは倒壊します
このとき、秀吉さんは倒壊した大仏さんに文句を言ったとか・・・
「おみゃあさま大仏なんだで、自分の身は自分で守らないかんがや」
秀吉さんは1598年に亡くなりますが
大仏再建は続きます、もちろん銅造で・・・
しかし、1602年、大仏さん鋳造の最中に出火し
大仏さんのみならず大仏殿まで焼失してしまいます
もうやめようよ、どうせ後から家康さんにいちゃもんつけられるんだから・・・
しかし、その家康さんは豊臣家の財力をそぐために
この大仏殿の再建を息子の秀頼さんに強く勧めます
で、始まったのが第2次大仏殿の再建です
第2次も大仏様を取り入れた建築でした
無事、1612年に大仏殿は完成(洛中洛外図の右隻向かって右から2枚目)
そして1614年に例の梵鐘も完成し
あとは大仏供養を残すのみというときに
鐘銘の「国家安康」「君臣豊楽」で家康さんが激怒し、大仏供養は延期となり
その後、大坂冬の陣、そして夏の陣で豊臣家滅亡・・・
ひさご様の方広寺大仏殿見物はあの「国家安康」の鐘ができる前です
見物の後、「国家安康」の鐘に取り替えられました
さて、豊臣家滅亡後、方広寺大仏殿はどうなったのか・・・
方広寺大仏殿の隣に建つ豊国社は廃祀となります(右隻向かって右から1枚目)が
大仏殿は残るんですよ
やはりあの梵鐘は証拠として残しておかなくていけませんから・・・家康さん的には
しかし、1662年の地震で大仏さんは倒壊
その倒壊した大仏さんはなんと寛永通宝の原料となります
1667年、大仏さんは木造で再建されますが
1798年、落雷により大仏さんも大仏殿も焼失します
とことん呪われていますね
ただ、方広寺はこの世から消えてしまいましたが
方広寺大仏殿の大仏様は残っていきます
第2次大仏殿の再建とほぼ同時期に
秀頼は家康に東寺金堂の再建も押しつけられます
この東寺金堂は、方広寺大仏殿を参考にして大仏様を取り入れています(1603年)
そして東大寺大仏殿・・・
すべてはここから始まった大仏様ですが
1709年、東大寺大仏殿も方広寺大仏殿を参考にして再建されました
方広寺大仏殿の遺伝子はなんとか生き残りましたよ、秀吉さん
・・・・・・・・・・続く
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光悦をたずねよ
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